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中庸の過超や不足は存在しないのか

書籍関連 考察

 

shirokichi-in-hermitage.hatenablog.com

 

 上に挙げた感想文の最後で、自分は第二巻第六章の「中庸の過超や不足も存在しないのである」という文面に疑義を唱えた。だが闇雲に自分が気になった点を問題視したところで、肝心の中庸が何を意味するのかを知らなければそれこそ話にならないため、まずは本書におけるこの言葉の定義について確認したい。なお自分には中庸の意義そのものを否定するつもりは全くないことをここであらかじめ弁明しておく。

 

 アリストテレスは、同じ第二巻第六章にて「徳は、それゆえ、その実態に即していえば、(中略)『中庸』(メソテース)であるが、しかしその最善性とか『よさ』とかに即していうならば、それはかえって『頂極』(アクロテース)にほかならないのである」と述べている。ここから考えれば、あらゆる徳で中庸を保つにはそのいずれにおいても最善を目指す必要があるだろう。

 

 だがそれは本当に容易なことなのか。話は少し逸れるが、しばらく前に婚活市場では「普通の人」がよく槍玉に挙げられていた。しかし『普通のダンナがなぜ見つからない?』(著・西口敦)において、著者は「普通」が上位50%に位置すると定義した場合、会話・ルックス・身長・学歴・年収等7項目全てでその条件を満たす人はわずか0.8%に過ぎないと説明している。上位50%でさえこの有様なのだから、仮に中庸を上位10%以内と規定した際にどうなるかは言うまでもない。

 

 ただしこの計算方法には2点ほど注意が必要であり、1つには各項目間における相関関係(例えば学歴と年収のそれ)を完全に無視している点がある。もう1つには徳は相対的なものではなくある意味で絶対的なものだという点であり、この場合には必ずしも一定の比率を当てはめて計算すべきではないだろう。それでも依然非現実的な数値が想定される辺り、いかにあらゆる徳で中庸を保つことが困難なのかは十分に推し量られよう。

 

 また周囲から見て勇敢で、快楽を節制し、金銭的に寛厚で、温和で、機知に富むetc……という人間は憧れこそすれ、いざ友人になりたいかと問われれば少なくない人が難色を示すのではあるまいか。更に言えばそんな完璧超人が誰からも嫉妬を買わないとは到底考えられず、下手をすればその完璧さ故に物理的あるいは精神的に孤立する可能性すら多少なりともあるだろう。中庸がある側面において「頂極」であることには何ら疑いの余地はないが、全体として見た場合にも変わらず「頂極」のままだとはにわかには信じ難い(こんな考えを抱く時点で自分はほぼ間違いなく悪しき人だが)。

 

 ところでアリストテレス自身は言及していないが、古代ギリシャにおいてもこの点は認識されていたようだ。節度を重んじる神であるアポロンは、姉妹神のアルテミスにあまり節度を守らない言動ばかりしていると指摘された際に「私は万事に節度を守って控えるようにしている。『節度を守って控えること』それ自体も節度を守って控えるようにしている」と返したとされる。引用元のWikipediaではこの発言を詭弁だとしているが、ルールに固執した結果周囲に疎まれる例などいくらでも存在するので、決して詭弁ではなくある種の機知に含まれ得ると自分は考えている。

 

 以上より中庸の過超や不足は存在するが、不足については単なる全体的な徳の欠如である一方、過超の場合には周囲の状況がその是非を大きく左右するというのが自分の見解だ。もちろん最善はそれがマイナスではなくむしろプラスに働くような正しい環境に身を置くことだが、それが難しい時には前述のアポロンの発言を思い起こしてみるのも一興だろう。